FC2ブログ
2017
12.25

Y コンビナート (blog,573p)

前回の記事でちょっと遠くまで『福祉車輌』を探しに行ったことを書きましたが、その往復で走行した国道沿いに以前にも書いたことがある日本有数の沿岸工業地帯『Y コンビナート』があります。
        四日市・5
田舎の【身近に田園風景が広がる古い小さい町】で生まれたぼくは『工業地帯』の姿や機能や在り様がどういうものなのかを実際には知らずに育ちました。

小学6年生になった時、それまでは社会科の授業で習って教科書に載っていた小さな写真でしか知識が無かった遠い町、その『Y工業地帯』のY市から一人の女子生徒が転校してきて、ぼくはすぐにその生徒と打ち解けて友達になりました。

        四日市・4
それは1960年代前半のことです。Y田 三重子さんというその人はしっかりした人でした。
授業中は勉学に勤しみ、休み時間はちゃんと遊び、学力で他人を分け隔てすることもない穏やかな性格の人でした。
目立たず騒がず、しかし決して自己主張がないわけではなく、パターン化して言うことはできませんが敢えて言うとすれば誠実な「研究者タイプ」とでもいう感じの人でした。

同じ小学校のクラスメートでも中学校は学校区が違っていたので、その人は東中学へ行きぼくは西中学へ行き、その後ただ一度だけ高校進学後に別の友達を訪ねて行った(ぼくの行けなかった)進学校で、そこの高校生になっていた彼女とバッタリ顔を合わせて短い言葉を交わして以降その人とは会うこともなく過ぎました。(彼女はその後どういう人生を送っておられるのだろうか)
        四日市・3
彼女がどうしてぼくたちの小学校へ転校して来たのか、その理由は知りませんでした。(当時聞いたのかもしれないが今思い出しても分からないまま)ただ、二,三度『Y コンビナート』とY市のことをその人から何か聞いたことがあったような気がします。

ちょうどその頃から地域住民に【喘息症状】をもたらす『公害』という概念が社会的関心を呼ぶ『事件』になりつつありました。
ぼくたちの田舎の町から200キロも離れたY市は、その『公害の町』の代表として時々ニュースにも名前が出るようになっていたのです。
ぼくは子ども心にも「Y田さんがその町から引っ越して、つまり『脱出』してこれてよかったなあ」と思ったことを覚えています。(でも今になって考えれば、その考え方はあまりにも自分勝手で卑近な思いだったと反省せざるを得ない)とはいえ当時のぼくにはとてもY田さん以外に「膨大に存在する公害環境下の住民」のことまで思いが及ぶのは無理だったのですが、、、

        四日市・2
あれから50年以上経った現在の『Y工業地帯・Y コンビナート』のY市をぼくはたまに通過することがある暮らし方になって、今回もまた小学生時代の自分の身の回りのことをいろいろ思い出しながら運転を続けました。

いつの頃からか、この町を走り抜ける度にぼくはこの町のイメージとY田三重子さんと、今現実にぼくが見ているこの町の風景を背景にしたマンガを描きたいと思うようになりました。

来年の1月中には村の家へ引っ越してそこで久しぶりにマンガを画き始める予定ですが、その最初の3本か5本の作品の一つがこのY市の話になるだろうと思います。

( 2017・12/24記、12/25,up )
--------------------------------------------------------------------------------------
☆きょうも『マンガのある農園』ブログへお訪ね下さりありがとうございました。 (^-^)/
よろしければ足跡代りに下の〔田舎暮らし〕か〔ライフスタイル〕のロゴマークをポチっと押していただけると嬉しいです。
  ↓  ↓

にほんブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村
( ロゴマークをクリックして下さると現在のブログランキングをご覧いただけます。)
--------------------------------------------------------------------------------------



スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2017
11.26

故郷の伝説 (blog,562p)

人が生まれて育った故郷を離れて暮らす場合、いつどういう形でその土地を離れたかによって郷里への思いはいろいろだと思います。

ぼくの場合は18歳で高校を卒業してすぐに当時の国鉄(現在のJR)東海道線普通列車で約5時間ほどかかる東京へ出て行きましたので、自分が生まれて育った町や土地についての歴史や風俗(民俗)などをあまりたくさん経験も知識もせず、僅かばかりの伝説やお祭りなどを知っていただけでした。
その少ない知識の中の故郷の伝説の一つが今度訪ねてみた『東海道日坂宿』の地域にありました。
    東海道・日坂・2
上の写真の『浮世絵風看板絵』は下の実際の風景の辺りを描いたもののようで、前のブログにも記しましたが日坂宿界隈です。

  (上の絵とよく似た風景を写してみたが、似たような場所は他にも何ヵ所もあった)
    東海道・日坂・4
現在ではもうこの厳しい坂道の途中には宿屋も人家もありませんが、この一帯はぼくが子供の頃からよく聞いた『小夜の中山・夜泣き石伝説』の舞台として有名な、旧東海道の最大の難所の一つだったそうです。

この坂道部分は一般道ですが、あまりの急阪で道幅が狭く、つづら折れの険しさでとても気軽に自動車で走行することはできないようです。(ぼくは今回、敢えて自分の4輪駆動車で挑戦してみたが50メートル先で立ち往生して貫走を断念した)こうして写真を見てもそれほど急な坂のようにも狭い道のようにも見えませんが、ものすごい急坂で自動車はすれ違えませんし上に行くとカーブも切り切れない感じです。

 東海道・日坂宿・1
こちら(写真・上 ↑ )が歌川(安藤)広重が画いた『東海道五十三次浮世絵版画』の中の『日坂』の光景です。
ぼくの郷里からはあちこちで富士山が遠望できるのですが、この辺りからどういう角度で富士が望めるのかはちょっと分かりません。(絵の中の道の真ん中に大きい丸い石が見えるのがたぶん伝説にある『小夜の中山の夜泣き石』ではないかと思う。その右手の道の急勾配はもちろんデフォルメだろうが、当時の人々には実感が伴っていたに違いないと思われる)

    東海道・日坂・5
じつは面白いことに伝説の『夜泣き石』と言われているよく似た大石が地元には二つ現存しています。
その一つはこの急な坂道を登って上方方面から江戸方面へしばらく歩いた先の久延寺(くおんじ=上の写真が山門)というお寺の境内に祀られています。(下の写真が境内に祀られている夜泣き石)
       東海道・日坂・6
そしてそれぞれの夜泣き石には微妙に違った伝説の解説書きが添えられています。
久延寺は初代創建は平安時代と伝えられる古刹ですが、度々の焼失などがあって現在の建物は江戸時代の何回目かの再建後の姿ということでした。(下の写真がお寺にある解説書き)

    東海道・日坂・3
ぼくが訪ねた日、小夜の中山は東海道の難所だった歴史に相応しい突然の深い霧に覆われて行き、ぼくはなんとなくここが自分の郷里の町の外れではなくてどこか全く知らない土地を旅しているような幻想的な気分を味わいました。

    東海道・日坂・7
(茶畑の上を深い霧が覆ってゆく。↑ ↑ ぼくの故郷は日本最大の緑茶の生産地でもあり、上等の深蒸し茶を生み出すためにこの霧が必要で「寒暖差や湿気がいい茶葉を育てる条件」と言われている)

さて、久延寺の夜泣き石がある場所から数百メートル北方へ離れた峠の辺り、新しい国道近くに「明治時代に旧東海道小夜の中山から移転させた夜泣き石」が祀られていて、地元ではこちらが本物の夜泣き石だと言われています。(下の写真)
            ↓     ↓
    東海道・日坂・8
そしてこの下の写真2枚に分割して載せた説明書きがこちらの夜泣き石伝説です。
内容はよく似てはいるのですが、お寺の夜泣き石に出てくる子供は因縁の結末を親の仇討ちで晴らし、こちらの伝説にある子供は親の仇である者を許して一緒に自分の母親の魂(菩提)を弔う話になっています。

       東海道・日坂・10
        東海道・日坂・11
その説明文を読んで知ったのですが、非常に長い歴史年代(数百年間、あるいは一千年以上?)に亘って東海道の難所だった『小夜の中山、日坂宿』が、いつまで実際に難所だったかというと、明治13年(1880年)に明治政府が日本で初めての有料道路として5キロ間の新道を開通するまで続いていたのだそうです。

この細い狭い急阪の道を古代の奈良まほろば万葉人や九州地方から東国へ送り込まれた防人や上方人(京都や大阪の都会人)や戦国の動乱に群雄割拠した武士(もののふ)や戦乱に追われた庶民大衆や松尾芭蕉のような旅人や、本当にたくさんの人々が行き交ったのだろうと思うと大きな感慨を持ちました。

今は通う人もない田舎の山坂道ですが、ここに確かに千数百年の人の営みを支えた街道の名残りが残っていることをぼくは何か自分の心の奥深くにある記憶の淵で噛みしめたいと思いながら、夕暮れが迫る郷里の町から270キロほど遠方のいつもの村の畑のある家へ向かって帰路に着きました。

( 2017・11/26 )
--------------------------------------------------------------------------------------
☆きょうも『マンガのある農園』ブログへお訪ね下さりありがとうございました。 (^-^)/
よろしければ足跡代りに下の〔田舎暮らし〕か〔ライフスタイル〕のロゴマークをポチっと押していただけると嬉しいです。
  ↓  ↓

にほんブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村
( ロゴマークをクリックして下さると現在のブログランキングをご覧いただけます。)
--------------------------------------------------------------------------------------



Comment:0  Trackback:0
2017
11.24

思い出の場所へ (blog,561p)

今回、一年振りで帰省して小学校3,4年生時の同窓会に出席した翌日『ねむの木村』で『ねむの木美術館』と『吉行淳之介文学館』を見物してから次に、小雨のけぶる中をぼくの実家から8キロか9キロほど離れた町外れの山間の集落を訪ねて行きました。

そこは東海道『日坂宿』というエリアで、ぼくはまさに同窓会で集まった「小学校3年生の時」(50数年昔)週に2回か3回づつ自分の家から町の中心街まで歩き、駅近くからバスに乗って町の東の外れに位置するこの集落『日坂』まで一人で病院(医院)通いをしていたのでした。

   日坂宿・1
ぼくは生後すぐから虚弱な体質で、小学校の上級生になる頃まで高熱を出したり身体のあちこちが痛んだりして学校を休むことが多い子供でした。(小学一年生の時には年間90日間欠席児童で、このまま2年生に進級しても勉学について行けないだろうから留年させませんか?と学校から提案されたが、ぼくがクラスのみんなと一緒に2年生になりたいと泣いて頼んで進級したということがあった)

それで物心ついた時には絶えずあちこちの病院や開業医院へ受診して注射を打たれたり薬を服用し続けていたものでした。
当時のぼくはすぐに熱が出て扁桃腺炎を起こし、腹痛も伴う症状に度々悩まされていたのですが、8歳の時に「県立病院を退職していいお医者さんが来てくれた」という町の人々の噂を聞き付けた母親に連れられてこの町外れの集落に開業された『T耳鼻咽喉科医院』へ通い始め、9歳の時にその医院で扁桃腺及びアデノイド切除摘出手術を受けたのでした。

    日坂宿・2
そこは今でも雰囲気は残っていますが、半世紀以上昔には現在よりもっと細くて古い村の一本道で、これが旧・東海道でした。(今回行って見ると、現在は上の写真の家々の上に見えるバイパス道路が国道1号線になっていた)

ぼくは一人で医院を受信して帰りのバス停の前にあった駄菓子屋で5円だけお小遣いを使っていいよと母親に言われていたので、痛い注射も我慢して帰りにその駄菓子屋さんで安価な玩具かお菓子を買うのが楽しみでした。

じつはかつて30年ほど前にも一度だけこの場所を家族と一緒に訪ねたことがあったのですが、その時には「もう先生は亡くなられて居られない」と地元の方から聞かされて医院があった場所も探さずに帰りました。
ところが今回、道の脇で地元の方にちょっとお尋ねしてみたところ「その医院があったT先生のお宅はここですよ」と親切に教えてくれる方があって、なんと現在でも所縁の方がお住まいだという家に行くことができたのです。

   日坂宿・3
上の写真がその元T耳鼻咽喉科医院だったお宅です。
今ではブロック塀が建てられている内側の一階部分が医院玄関と待合室と治療室でした。その頃のことを微かに思い出しているのですが、畳一畳か二畳分位の三和土(たたき)の玄関が受付で、その隣が三畳分ほどの待合室で、さらにその奥が六畳二間位の板床張りの治療室だったような気がしますが、もうとても定かには思い出せません。(あちこちの個人開業医院を受診していたので記憶そのものも混乱している)

その扁桃腺摘出手術の後ぼくは段々丈夫になって、中学生では地域の10数校が参加する中学対抗駅伝(中距離走)の選手に選ばれるほどになりました。(ただそれがその時の手術結果による健康獲得だったのか、或いは幼年期から少年期に至って体力的な成長に伴って体質も改善したためなのかは今でも分からない)

さて、ここまで来たのですぐ近くにもう一ヵ所、行って見たいところがありました。(次回に!)

( 2017・11/24 )
--------------------------------------------------------------------------------------
☆きょうも『マンガのある農園』ブログへお訪ね下さりありがとうございました。 (^-^)/
よろしければ足跡代りに下の〔田舎暮らし〕か〔ライフスタイル〕のロゴマークをポチっと押していただけると嬉しいです。
  ↓  ↓

にほんブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村
( ロゴマークをクリックして下さると現在のブログランキングをご覧いただけます。)
--------------------------------------------------------------------------------------



Comment:0  Trackback:0
2017
11.21

『ねむの木村』へ (blog,560p)

前回のブログでビジネスホテルに宿泊した翌日、行ってみたかった2,3の場所を訪ねる予定だったことを書きました。
その一つが下の写真の建物(美術館)に象徴される施設のあるエリアでした。

       2017掛川・4
そこは『ねむの木学園』と言う障がいを持つ子どもたちを受け入れて寝起きを共にしながら育て生活する学校を中心とした障碍者自立支援施設です。(現在は子供から老人まで何十人もの障がいを持つ人々が暮らしているとのことだった)

この施設『ねむの木村』の創立者は歌手で女優の宮城まり子さんで、今から49年前に最初はぼくの郷里の隣町にある海辺の砂丘地帯の一角に同名の施設を建設して長い間自立支援施設園長として奮闘してこられました。
あれはたぶん30年位前のいつだったか、ぼくは水上勉氏(当時は健在だった小説家)と宮城さんの対談を読んだか聞いたかして、ぜひ一度見学に行きたいと思ったのでした。

          2017掛川・3
  (上は美術館の壁にもかけられているまり子氏の写真と決意宣言。ぼくは今回この
   写真と文言に触れただけで不覚にも目頭が熱くなってしまった)

        2017掛川・6
美術館の中はシンプルですがとても暖かい印象が漂う展示形態とスペースで、障がいを持って生きる子供たちが描いたたくさんの絵が展示され、宮城まり子さんご自身のガラス造形作品なども控えめに並べられていました。

 2017掛川・7
ここに載せた絵はその展示作品の中のものですが、残念ながら直接の写真撮影はご遠慮くださいということだったので『画集』からの自宅コピー転写です。

     2017掛川・8
美術館は二階建ての二階スペースに在って、一階はミュージアムショップでした。
ぼくはそのショップで家族へのお土産と後でもう一度ゆっくり展示作品を思い出せるように『画集と本とイラストマグネット』(上の写真)を購入して、その後、同じ『ねむの木村』内にあるもう一つの建物を見学に行きました。

それがこの下に載せてある2枚の写真の『吉行淳之介文学館』です。
吉行淳之介は戦後最初のスター小説家たちの代表的な一人で、生涯身体的な病弱体質と若い頃の手術が原因とされた病気に苦しめられながら命が続く限り創作活動をつづけた自由律の作品を書く作家でした。(ぼくは彼が現役だった青年時代から雑誌掲載作品や単行本や文庫本、ほかの作家たちとの短編アンソロジーなど、10冊前後の吉行本を読んできた)

     2017掛川・9
東京の作家・吉行淳之介を記念する『文学館』がなぜこの『ねむの木村』のメインストリート(と言ってもかろうじて自動車がすれ違える程度の山中の道)沿いに建っているのかと言えば、それは宮城まり子さんと吉行淳之介氏は昭和30年頃から吉行氏が逝去するまでずっと長年連れ添われた「実際上のご夫婦」(吉行淳之介には法律上の妻も子供もいる)だったからです。

建物内には吉行作品に関連した本や絵や原稿や写真や所持品などの一部が展示されていて、とくに前期、中期の作家活動に関わるリアリティーをぼくは感じました。

     2017掛川・10
しかし何と言ってもそれらの資料の中でひときわ温かい光彩を放っているのは若い日に吉行淳之介が宮城まり子に宛てて書き送ったラブレターの数々が、ある時代の時系列で展示されているコーナーでした。
ラブレターと言ってもただ「愛しい人よ」とか「愛しています」とか「好きだ好きだ」と書きなぐられた手紙ではなくて人気歌手で女優である宮城まり子という若い女性に対する「彼女の人間的な独立と自由」を尊重しながら尚且つ自分の我儘な希望を織り込んだ「作家になった青年」のナイーブな文面と文言でした。(ぼくが初めて吉行作品を読むより15年以上前の時代の手紙ということになるだろうか?)
ただしこの二人の絆も、一般的に言えば妻子ある作家と女優でもある有名歌手との長年の不倫関係という生臭い扱いにならざるを得ない一面も持っていることになります。

『ねむの木美術館』も『吉行淳之介文学館』も、ぼくがこの町で生まれて育ち、高校を卒業して上京して行くまではぼくの郷里の訪ねるべき場所ではありませんでした。(つまり存在していなかった)時代は変わり歴史は積み重なって行くのですね。

この日、ぼくはもう一、二ヵ所、古い記憶に残っている場所を訪ねて車を走らせました。(以下、次回へ続く)

( 2017・11/21 )
--------------------------------------------------------------------------------------
☆きょうも『マンガのある農園』ブログへお訪ね下さりありがとうございました。 (^-^)/
よろしければ足跡代りに下の〔田舎暮らし〕か〔ライフスタイル〕のロゴマークをポチっと押していただけると嬉しいです。
  ↓  ↓

にほんブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村
( ロゴマークをクリックして下さると現在のブログランキングをご覧いただけます。)
--------------------------------------------------------------------------------------



Comment:1  Trackback:0
2017
11.19

年に一度の同窓会 (blog,559p)

つい6,7年前まで、ぼくは今暮らしている町から自動車走行距離で260数キロ東へ離れた自分が生まれ育った町へは長い間帰郷することがない状態でした。
せいぜい数年に一度、実家の法事関連で帰る程度だったのですが、この頃は毎年この時期に帰郷するようになりました。
それはもう卒業から半世紀以上経った小学校の同窓会が毎年、担任の先生の誕生日に近いこの時期に開催されていることを友達から聞いて知ったからです。
     2017掛川・1
 (上の写真はまだ戦後たった十数年後の昭和30年代半ば、田舎の小学校3,4年生の時の
  クラス写真。前列から2段目の右から4人目に居られる周りの女子生徒より一回り大きい
  人が担任のN先生。ぼくは最上段、右から3人並んだ女子生徒の隣の長髪の男子生徒)

          2017掛川・2
 (そしてこちらは今年のクラス会写真。最大57人ものクラスメイトがいた「3,4年花組」
  前列の真ん中で花束を手にしておられるのが先生で、ぼくは後ろで立っているたまたま
  ここでも「右から4人目」に写っている赤いTシャツの人)

もう実年齢ではすべての参加者が老人に属するようになったわけですが、会って話をすると、多くの人たちが子供時代と現在の区別がつかない話題で打ち解けた話をしています。
ただ、ぼくはあまり孫自慢の会話には参加しません。
子供や孫に恵まれなかったり孤立した人生を歩いてきた人たちも世界にはたくさんいるということを身近に知っているからです。

ぼくの今まで3回(4回目かな?)の参加中、今年は初めて二次会にも行きました。
駅のすぐ近くのビジネスホテルに毎回宿泊するので夜遅くなってもいいぼくともう一人の友達と深夜になっても電車に乗れる人とタクシーですぐに帰宅できる人と合計4人だけの二次会でした。
         2017掛川・5
お店は深夜0時で閉店するまで、ぼくたち4人よりも先客だった10人位の団体と貸し切り状態でした。(つまり他には来客が無かった)
ぼくが高校を卒業して上京したころまでは国鉄駅(現在はJR)の南側には大きい建物はほとんど何もありませんでしたが、今では新幹線の駅や大小のホテルや企業ビルなどが並ぶ典型的な地方再開発計画に席巻された街の姿になりました。

そのいくつかのホテルの中でも最も安いビジネスホテル(上の写真)に泊まり、翌日は自分の車で市内の2,3箇所の行きたかった場所を訪ねてから村の家へ直行することにしました。

( 2017・11/19 )
--------------------------------------------------------------------------------------
☆きょうも『マンガのある農園』ブログへお訪ね下さりありがとうございました。 (^-^)/
よろしければ足跡代りに下の〔田舎暮らし〕か〔ライフスタイル〕のロゴマークをポチっと押していただけると嬉しいです。
  ↓  ↓

にほんブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村
( ロゴマークをクリックして下さると現在のブログランキングをご覧いただけます。)
--------------------------------------------------------------------------------------



Comment:0  Trackback:0
back-to-top