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2016
03.29

母屋の改築工事、その〔10〕 (blog,356p)

Category: 村の家にて
以前にも書きましたがぼくは子どもの頃からいろいろな「工事の現場」を眺めるのが好きでした。
道路普請でもどこかの家の新築や改築でも橋やビルディングの建造でも現場の人たちの邪魔にならないように(邪魔していたかもしれないけれど)よく眺めていました。

長ずるに従って興味は昂じて自分でも実際に工事をしたいと思うようになり、そして大人になってからですが時々本当に建物作りに挑んだりもしてきました。
建物といっても素人工事(DIY)で2坪弱の物置やテラス込み10坪そこそこのコンテナ利用ハウスを作ったり小さい小屋を建てたりしたことしかないのですが一応コンクリ-ト基礎工事の真似事も経験したことがあるし、作業する時のしんどさも充実感も気分だけは知っているつもりです。

なので今回、改築改造工事の凄い仕事を目の当たりにしてそれがどんなに大変な作業の連続かを(観る度に)感じています。
だからぼくとしてはぜひともしっかりとこの工事の工程を記録しておきたいと思っています。
       2016_02 06_母屋改築・9の1
最初は固定した土台が無かった建物の地面 ↑  ↑ (建て坪敷地)の上一面にコンクリ-トが敷かれ、その沿革もコンクリ-トで囲われてこういう形になって行きました。
        (上の写真とほぼ同じ場所) ↓  ↓
       2016_02 21_母屋改築・9の4
ぼくはこのコンクリート打ちの作業工程を見ていないので確認できなかったのですが、最初の計画段階でお願いした【地面に一定の厚さで割り栗石または砕石を敷いてその上に鉄筋網(メッシュ)を全面に敷き並べてそこへ厚さ15センチ位に生コンを敷き詰める『ベタ基礎』というやり方】はどうもなされていないようでした。
希望的にはそれに準じた簡易ベタ基礎とでもいうものはやってもらえたのではないかと思っていますが、実態は不明です。
       2016_02 06_母屋改築・9の2
ともかく上の写真の様な土の床下地面が ↑ ↑ 新しい間取りの改築計画に沿って床下になる部分の区画に整え直されて行きました。↓ ↓(上下写真はほぼ同じ辺り)
       2016_02 21_母屋改築・9の5
ぼくは一回の村の家滞在(一週間から10日間前後)の度に凡そ300枚から500枚位デジタル写真を撮り続けていますのでもう合計枚数は一万枚位は溜っているはずです。
今は現在進行形の現場状況の変化を記録するだけで精一杯ですが、全部の改築工事が完了したらいくつかのポイントを選んで順次撮りためた写真を並べればちょうど【定点観測】の様なものが編集できるだろうと思っています。
       2016_02 08_母屋改築・9の3
上の写真のように今までこの家では柱の土台に↑ ↑コンクリ-ト板の簡易束立てしかありませんでしたが、上から2枚目、4枚目、6枚目(一番下)の写真に見える通り土台の材木を積載するためのコンクリート基礎が完成したのでいよいよここから土台が作られてその土台に柱や壁が立てられて行くことになります。
       2016_02 21_母屋改築・9の6
これまでもそうだったし今後も完成までずっと村の家と町の家をだいたい半々で行ったり来たりして暮らすのでどんな工事がなされているのか観られない場合もたくさんあります。

ぼくにとっては確認できないと不安なこともよく有って是非とも見ておきたい工程が幾つも幾つも未確認のまま工事が進んでいる部分があります。でもそれはこの工事を請け負ってもらった建築会社さんのチームを信頼してお任せするしか仕方がありません。

きっと心配無用、不安不要の住まいを作ってもらえることと思います。(期待しています)

  ( 2016・3/29 )
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2016
03.26

母屋の改築工事、その〔9〕 (blog,355p)

Category: 村の家にて
3月13日付のブログ(347p)『母屋の改築工事、その〔8〕』以来しばらく間が空いてしまいましたが今日からまた少し母屋がどうなって来たか順を追って記してみたいと思います。

前回までの改築記録記事で、この建て坪・約50坪弱(面積150平米前後)の古い平屋建ての農家がどんな地盤の上にどんな構造で建てられていたものだったかを記述して来ました。
もうほとんど根元が虫に食われてすっかり消滅してしまった柱や、大人のぼくの両腕一抱えもあるような巨大な梁の一部が虫に食われてまるで発泡スチロールか段ボール紙か綿屑のようにボロボロになってちょっと触っただけで分解してしまう恐ろしい状態になっていたという内容です。

そんな「痩せ細って頼りなくなってしまっていた柱」が、下に並べる写真のような縦横に交差してしかも写真には写っていませんがこの天井のもう一つ上に同じようなというかもっとゴツイ梁が組まれているのを重層して支えてきたことをぼくは目の当たりただただ驚嘆して観ていました。(しかしその多重に組まれた構造体の上に更に泥土と焼き物瓦がどっさり重ねられた大屋根が載っているのを考えると本当によくこの家が今まで重さや揺れに負けて崩落倒壊してしまわずに済んだことは幸運だったんだろうとしか思えない。)
      2016_02 06_母屋の梁・1
      (こういう梁が古い母屋の天井部分に縦横に張り渡されている。)

      2016_02 06_母屋の梁・2
(天井は上の写真のような板張りの部分↑↑と、下の写真↓↓のような竹スダレを渡した上にムシロか紙を敷いた部分とが併設されていた。)
          2016_02 08_母屋の梁・8
この上下の写真に写っている太い材は「梁」というよりただの障子戸やガラス障子の引き戸を設定するための「鴨居」部分に当るわけですが厚さ16センチ前後、幅が30センチ前後もあって当節の新築住宅の梁の部分よりずっとガッシリしていました。昔の民家というのは本当に贅沢な建材だらけだと思います。
      2016_02 06_母屋の梁・3
しかしその立派な梁や鴨居や柱があちらこちらで食虫害や湿気やたぶんカビの活動によってだろうと思われる原因で、あるいはそれらの複合被害で見るも無残にボロボロに劣化しているのは如何ともし難い現状になっていてそのまま残すことが出来ないのが返すがえすも残念で惜しいことでした。
      2016_02 06_母屋の梁・4
この上下2枚の写真に見える梁と天井の間は土壁が塗られています。その上の鴨居写真や竹簾の写真の部分も今回剥がして撤去されるまではどっしりした土壁が同じように塗られていました。
その作りは全て本壁塗り、つまり芯に網代(あじろ=竹で編み目を組んで縄で綴り括ってある)を架け、その上に泥と繊維をこね合わせた土壁を塗って更に漆喰塗りして仕上げたもので造られていました。
あちこち壁の色が漆黒なのはたぶん墨塗りで黒く仕上げてあったのだろうと思いますがもしかすると最初はただのきれいな白い漆喰壁だったのが90年間か100年間の長きに亘って家の中で囲炉裏やへっつい(薪を燃やす台所)の煤が天然塗装をしていった成り行きの結果だったかのどちらかでしょう。
      2016_02 06_母屋の梁・5
この家は厳密に建築の歴史とか学術的な見地から観ていわゆる『古民家』と呼ばれる範疇に入るのか入らないのか微妙なところだと思うのですが、ともかくこういう梁や柱が重い屋根を支えガッシリした躯体構造を作り上げて、たぶん昭和初年代以前、大正時代かもしかしたら明治時代に建築以来少なくとも90年か100年か(あるいはそれ以上の年月)気象の変化や自然界の異変といった風雪に耐えて【この家に暮らした人々の寝起きを保障してきた】ことは確かな事実だった訳です。
      2016_02 06_母屋の梁・6
そしてこの度は全くの偶然でしたが機会を得てぼくたちが譲り受けることになり元の持ち主さんとこの家とに縁が結ばれることになりました。

今回の改築工事に当って、ぼくは建築会社の設計士さんや実際に工事をして下さる棟梁大工さん、会社の現場監督さんに「出来得る限り元の構造躯体と材木を活かして残しながら現在の暮らしを営むための家に造り替えていただけるように」とお願いをして工事契約をしたのでした。
      2016_02 06_母屋の梁・7
しかし実際に工事が始まるやいなや柱や梁の部材の多くがこのままでは新たな部屋組(間取り変更)や今後のこの家の安全な維持に適さない状態になってしまっていたことが素人のぼくの目にも明らかなことが判りました。
それで現場では全面的に経験豊富な技術者である棟梁大工さんに工法も部材の差し替えもお任せして着々と大改造工事が進行中です。

今回の村の家滞在は3月16日朝から24日朝までの実質9日間でした。
この頃はぼつぼつ自分の暮らしの中の目標の一つに掲げている「絵を画くこと」も再開しました。
改築工事の観察も欠かせません。
ぼくにとってのもう一つの大きな目的である作物育て「畑の世話」が昨年末来すっかり疎かになっていて気掛かりで仕方がありませんでしたがそれもちょっとだけ作業を再開してきました。
そんなこんなの自分の課題をしっかりクリアーして行くためには今のように町の家と村の家を行ったり来たり二重の暮らしをしていては体力的に間に合わない状況になっていますがもう暫くはこの暮らし方で頑張るしか仕方がありません。

今日掲載した写真は全て2月の初旬に撮影したもので1ヵ月半後の現在はかなり大きく様相を変えて来ています。
これから何度かに亘ってその変化を記録して行く予定です。また畑のことも書きたいと思います。

  ( 2016・3/26 )
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2016
03.24

『撮影所で働いていた頃、その〔1〕~〔5〕』の記述を了えて (blog,353)

【追記】
ここまで5回分の書き込みを終えた後になってふと思い立って1971~'72年頃(つまりここで書いた特撮映画時代)20歳そこそこのぼくが出入りしていた世界の住人たちのその後の消息が分かる人もいるだろうかとネットに彼らの名前などを打ち込んでみました。
すると驚いたことに親しかった何人かの人たちのその後の消息を(粗密の違いはあるけれど)発見できて読むことができました。
(監督たちのことはメディア媒体を通じて何となく見聞きしていたが他のスタッフのその後についてはぼくは全く知らなかった)

だいたい1980年代まではこの【特撮世界】は段々元気が無くなりつつも生き延びていて、その後'90年代以降もごく一部の人たちはマニアックなファンの視線を浴びたりしてきたようです。
ぼくに通勤用の自転車を貸してくれていたあの人(アシスタントデザイナーだった優しいYさん)もつい2年ほど前に出身地の信州松本で何かのイベントでサイン会をしたことを知りました。
ぼくが暮らしていた小さい借家へ押しかけてきてピーマンを生でかじりながら持参したウイスキーを呑んで管巻いていたデザイナーのT.I(苗字の頭文字を二つ繋げて呼んでいた)さんは、その後すっかりキャリアを積んでずいぶんたくさんの映像作品にスーパーヒーローや怪獣のデザイナーとして名前を連ねていたことも分かりました。

そんなことが分かったので『マンガのある農園(準備中)』がスタートしたら何か方法を探してぼくの消息も彼らにお伝えしてみたら楽しいかもしれません。
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  ( 2016・3/24 )
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2016
03.23

撮影所で働いていた頃、その〔5〕 (blog,352p)

今日まで5回に亘ってぼくが若い時に働いていた特撮怪獣テレビ映画の撮影現場の話を続けて来ましたが今日でこの話題に一区切りをつけることにします。

それで今まで具体的なその特撮劇映画(番組)のタイトルとかキャラクターの名前とかを一切表記して来ませんでしたが、今回がこのテーマ最終ページの書き込みということでちょっとだけ主役の画像も載せておこうと思います。

この写真のセットの中央で寝ころんで演技をしているのがぼくが働いていた特撮劇映画の主役でした。当時テレビをよく観ていた少年少女ならきっとよくご存知のことでしょう。
彼は宇宙からやってきた地球人類の味方『帰って来た○○トラマン』です。
                    ↓      ↓
      円谷時代5の1
元々潜水服(ウエットスーツ)に着色して作られた通気性の良くない着ぐるみに入って『巨大怪獣と闘う宇宙のスーパーヒーロー』の演技をしていたのはKチさんという顔が映る時代劇などでもしぶい脇侍役を務めたりしていた役者さんでした。

いくら特撮班主役の役者さんとはいえ着ぐるみを全身着装したままで長時間過ごすことはたいへんなので、何カットか撮り続ける本番前後のそれぞれ数分間から十数分間以外はだいたい着ぐるみの背中のファスナーを腰まで割って着たり脱いだりして過ごしておられましたが、その点では怪獣の着ぐるみに入っていたTヤさんの方は毎回もっとずっと体力を消耗するお仕事だと嘆いておられました。(怪獣役の方がいつも大分肉厚なウレタンの着ぐるみを着装していた)
        円谷時代5の3
その上、台本に主役と怪獣が海や湖などの水中海中で戦うシーンが設定されていると大変さは一気に何倍にも増して行きます。
ウレタンで肉厚に作られた怪獣の着ぐるみは中の人にとって通気性の悪さとムレる暑さはもちろんですが、ウレタンスポンジが水を吸った時の重さはものすごくてとてもその中で『演技』をする体勢になどなれないというわけです。
       円谷時代5の2
だから水入りのシーンなどは撮影日程全体の最後の方へプロセスして周りのぼくらも自分たちの作業を中断して動員されて撮影がうまく進むようにサポートします。
水場のスケールが小振りなプールで間に合う時は普段セットを組んでいるスタジオの中に大道具さんの手でプールが作られて湖や海が出来上がります。
        円谷時代5の4
今日のブログページに載せてある写真は全て大道具さんが作ってくれた臨時プールですが、一定の広大さや深さが表現できないといけない場合には急場しのぎの手づくりプールでは間に合わなくて東宝本社スタジオの大型プールへ現場を移動して波を起こしながら撮影したりもしました。(しかしかなり大きくて深い部分もある撮影用プールだったがとてもこの頃のリゾート施設にあるような複雑な波を生みだしたりは出来ない設備だった)
         円谷時代5の5
この撮影の時ではなかったと思いますが水の中に怪獣がうつ伏せで存在する撮影の時に怪獣の着ぐるみの中のTヤさんが水で重くなり過ぎた着ぐるみの顔があげられず危うく窒息してしまう寸前でスタッフに抱え上げてもらい息を吹き返して酸素吸入をしていたこともありました。(酸素ボンベは怪獣役者さんには必需品だった)
         円谷時代5の6
ぼくがこの撮影所で働いていた期間はたった1年少々、飛び飛びにその後もちょっとづつ別のタイトルの特撮物撮影を手伝ったりしましたが運良く翌年にぼくは漫画家デビューができて、それも束の間のことでしたが今日まで続く自分の長い定職を持たない自由で不安な人生へと船出したのでした。

まだぼくは20代の初めの頃でした。撮影所で知り合ったたくさんの人々もその頃はまだ20代、30代の人々が大半でした。あれから40数年になりました。
アルバイト仲間は学校を卒業し、撮影所からもそれぞれの道へ歩み出て行ったことでしょう。
ずっと映画人、テレビ人、撮影技術屋さんで過ごした人々もいたかと思います。しかし20世紀末になると映像や音源の表現領域に一気にデジタル化の波が大津波のように押し寄せてきて、昔現場の労働を通じて身体で覚えた映画撮影や音楽作りの技術も伝統も道具も全てを無用の長物として押し流して行きました。
あの頃の人たちはどこでどう暮らしているでしょう。今も滅法元気で動き回っているような人が居てくれたらいいなあと思います。

1970年代に20代だった若者たちは60代になり、30代だった先輩たちは70代の老人になりました。
             円谷時代5の7
いつの時代でもきっと同じなのだろうと思いますが、この状況下を今日まで生き延びた人もいるでしょうし生き急いで既にどこかへ逝ってしまった人々もいたことでしょう。

ぼくは老年に至って初めて本格的に自分がやりたかった暮らし方にチャレンジしようと決意して実行し始めました。
撮影所時代、現場で自分が思ったことや頭で描いたことを口にする度に周囲の人々から「お前がそんなことを言うのは10年早いよ!黙って仕事しろ!」と言われたものでした。
その更に2年ばかり前、小さな油絵とデッサンの専門学校(実態は画塾だった)へ通っていた時、教えられる古典的な表現や描写法と違う絵しか描けなかった時も教官から「きみねえ、学生の内からこういう表現をするのは10年早いんだな、もっと基本をみっちり体得してそこから溢れ出した才能によってこういうものに到達するのが筋道なんだからね」と言われていました。

でもぼくは将来のいつかのために今は我慢しろという教訓は教訓ではないし教育は教育ではなかったと思います。
人間は一回しか生きられず、一人一人がみんな違う個性を持っていてその人にしか思えない心の動きや今しかできない願いや力を発揮しているはずです。
そうした誰でも何かその人にしか生きられない生を全うすることが人間として一番幸せな生涯になるのではないかと思うのです。

今、ぼくは自分でよく自分に言います。
「やっとここまで来れたんだ、年齢を考えると既に10年か、いや20年、いやいや30年も遅くなってしまったけれど、今からでもまだやれることが在ったらやりたいようにやってみような!」
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以上で『撮影所で働いていた頃、その〔1〕~〔5〕』の記述を終了します。

次回からはまたいつもの『マンガのある農園(準備中)』の話題のあれこれに戻ります。
いつもついつい長文になってしまう読みづらい当ブログをお読み下さりありがとうございます。
今後は何とかもう少し簡明なブログになれるように心掛けて行きますのでまたご用とお急ぎでない時にどうぞお読み下されば嬉しいです。
失礼します。

  ( 2016・3/23 )
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2016
03.21

撮影所で働いていた頃、その〔4〕 (blog,351p)

ある時の撮影で富士山から怪獣が出てくるのか山頂に降り立つのかぼくは脚本に関心が無いので確実には覚えていないのですがそういうシーンの撮影がありました。(そうだ、後で噴火シーンも苦労して撮影したんだった)
その山作りもぼくたちの仕事ですが、これは同時に大道具さんの仕事でもあって、どういう段取りになっているのか分かりませんでしたが出来上がった山を用いて撮影が準備される段階からは全体がぼくたちの作業になって行きます。
         円谷時代4の1
怪獣の中に入って演技する役者さんはTさんと言って別の番組(同じような特撮劇映画)を掛け持ち演技していてそちらでは主役の着ぐるみ演技をやっている人でした。
        円谷時代4の2
リハーサルはそのTさんに演技をしてもらいながら助監督のFさんが全体のシーンの流れや撮影効果を作り上げて行きます。(この助監督のFさんは実写映画の脚本を書いているし戯曲や小説も書いているが道が開けないと悩んでいる人だった。その頃ぼくが住んでいた家と近所だったのでたまに遊びに寄ってくれたりスーパーの買い物でハチ合わせしたりしていた)
        円谷時代4の3
セットを作る材料は何でも有りでした。
基本的には一般的な建築材料で材木の足場丸太、角材、ベニヤ合板、セメント、砂利、石膏、カボック(発泡スチロール)から、布、紙、荒縄、針金、鉄板、泥、草木、ゴムシート、ペンキ、墨、使えるものは何でも使ってリアリティー、、、というか、なんか斬新な物質、物体を描けないものか、なんてぼくは勝手に密かに思っていましたがデザイナーサイド(兼制作サイド)のKさんなどに『変なアイデア』を提案する度に「またそういうことを言いだす!オレだって本当はやりたいんですけどね、できないでしょ!予算はどうするんですか!?制作期限はどうするんですか!?」「だからアルバイトはいいんですよね!我々正社員にはどうにも身動きできません!」と返答、拒否され続けていました。(このブログで載せている写真の大半はそのKさんが送って下さったものの中から選んで使わせてもらっている)
           円谷時代4の4
撮影所の通称【ステージ】と呼ばれる大きいバラック建物(物置き)の内部は常にセットが組まれたり解体撤去されたりし続けていて同じ風景でも後でまた撮影に必要な時が来ると改めて同じようなセットを最初から組み上げたりすることも珍しくありません。
背景の空模様などは大抵『ホリゾント絵描きさん(大道具さんの職分だったのかなあ)』が極めて短時間で描き上げてくれるのでぼくは時々自分の仕事をサボってボ~ッとその作画作業を眺めていたものでした。(上の写真に見える一番遠くの山と空、下の写真の背景の空と雲などが「ホリゾント」背景画)

撮影中はたくさんの人数でできる作業は協力しながら無事にカメラが回り、スタートの声が掛り、ストップの声に続いて「ハイ、OK!」という声が聴こえるまでそれぞれにしっかり働きました。
         円谷時代4の5
この写真は何機もの宇宙艇(それが劇中の敵なのか味方なのかぼくはいつもドラマの流れを知らないで作業をしていた)が空を飛行して行くシーン撮影本番直前の光景です。
写真には4人の人たちが写っています。本来こうした小道具、モデル機器の操作を担当するのは『操演(そうえん)部』と呼ばれる仕事の人たちの担当ですがここには一人しか写っていません。一番左側の人は美術部のSヤさん。一番右手の人はカメラマン助手のSトウさん。脚立の上で宇宙飛行艇を吊るしたピアノ線がフィルムに写ってしまわないように背景の空の色と同じ青色ペンキを塗っているのも撮影助手さん。

いつもだいたいこんな風にして全ての準備が整った現場にやがて監督がやって来て撮影本番に臨むのでした。(以下、次回へ続く)

先日急に思い立って書きだしたこの項のブログ『撮影所で働いていた頃』シリーズでしたが、次回(第5回)までで一区切りとしてその後はまた村の家の母屋改築と畑仕事やギャラリー関連の話題に戻って行きたいと思います。
ということで、本日は失礼します。

  ( 2016・3/21 )
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2016
03.19

撮影所で働いていた頃、その〔3〕 (blog,350p)

何十年振りかで特撮テレビ映画製作の現場で働いていた時のことを書いています。
ついでなのでもう少し書いてしまって自分の思い出を整理して一区切りをつけたいと思います。したがって村の家の母屋の改築報告の方はもう少し後に続きを書くことにします。

ぼくが働いていた映画撮影所の中の《セットを組んで撮影する建物》はこういう物でした。
1954年の東宝映画『ゴジラ』から始まり、テレビ時代になって1960年代から'80年代まで何十作にも亘って延々続々と創り出されたいわゆる『特撮・怪獣&スーパーヒーロー物劇映画』の揺籃の地、生まれ故郷はこのような数棟の大きなバラック倉庫建物の内外だったのです。
             ↓             ↓
    円谷時代3の1
建物への出入り口は少し引っ込んで二重の引き戸が付けられていました。これは撮影時に外部から自然光が入ってくるのを遮断遮蔽するためです。↓ ↓
         円谷時代3の2
劇映画の中ではまるで自然の光の移り変わりのように見える明暗も通常は全て電気技術専門家でベテラン職人集団であるライティングスタッフ(照明さん)が監督の指示に従って人工的に創り出しています。
だからぼくなど慣れない内はよく撮影準備中に自分たちのパートの必要からドアの出入りをして照明さんにひどく叱られていました。
照明さんが本気で怒ると地上4,5メートル高さの足場床の上から物を投げつけてきたりして非常に危険で、ぼくは取っ組み合いの喧嘩をしたこともありました。
久し振りにこうして眺めると何となくその時の殺伐とした恐怖感を思い出す建物の写真です。

建物の外には人影もなくシーンと静まり返っていてまるで伽藍洞のような倉庫バラック建物のようでしたが中では長時間に及ぶ撮影が続いている毎日でした。
       円谷時代3の3
この建物自体をぼくらは業界用語で『ステージ』と呼んでいました。(建物の並び順なのか建てられた年月順なのかぼくは知らないままだったが各建物を第三ステージとか第四ステージという風に呼んでいた)
映画を作る監督や俳優やカメラマン、大道具さんや照明さん他たくさんの人たちにとって、このバラック倉庫群の中に組まれたいろいろなセットでスクリーンの向こうにいる観客やブラウン管の向こう側で見ている子どもたちや不特定多数の人々の注目を浴びる演出や演技や撮影に関わる仕事をして行くのはきっといつも『晴れ舞台』(ステージ)だったのでしょう。

ただ、ぼく自身はそこで働いていた間ほとんど全くそういう実感はありませんでした。それよりも早くそういうアルバイト暮らしから抜け出して自分の描くマンガが出版社に認めてもらえることばかり考えて焦っていた時期でした。
        円谷時代3の4
それでも現場にはそれなりに面白い造形実験や工作の工夫がいつも転がっていて、たとえば『未知の惑星の地形』だとか『不思議な宇宙基地』だとかのセットになるとチーフデザイナーが徹夜で画き上げたスケッチ(設計図面)とは違う勝手な造形をして「お前、これは違うだろう、誰~れがこんなことしても良いって言ったんだ!?え~?!」などと怒られてしかしやり直さずにそのまま撮影に立ち会ってウフフとほくそ笑むこともあったりしました。
けれどもぼくはテレビを持っていなかったので自分が働いていた特撮テレビ映画を当時も現在までもほぼ全く観ていません。
         円谷時代3の5
ぼくがその仕事場でやっていた主な仕事はこの写真にあるような2,3メートル四方から最大で5,6メートル x 10メートル規模の模型の町を作る手伝いでした。(建物を作ったり壊れやすく加工したりセットしたりバラして運んだり、美術スタッフとは仮の名で基本的に手先仕事と肉体労働だった)
       円谷時代3の6
厳しい時間拘束があった職場ではありませんでしたがこういう作業を繰り返していると毎日夜遅くまで現場にいることが多くなります。
通勤は朝はバスで行き、夜遅くなると遠回りの私鉄電車を乗り継いで帰ってきたりたまには徒歩で1時間近くかかって帰ってきたりしていましたが、優しいチーフデザイナーの一人が自転車を貸してくれてからはグンと通勤が楽になりました。
バスに乗って行くと15分ばかりで東宝映画の本拠地があった成城学園駅へ着くのですが、そこまでのちょうど半ばあたりに大スター三船敏郎の屋敷・三船プロダクションがありました。

時々、東宝本社の撮影所でセットを作って撮影する現場にも行きましたが、さすがというか東宝(砧)の本社スタジオは日頃ぼくが働いていた撮影所に比べるとずっときれいでした。施設も充実していて、食堂があるし通路が舗装されていて撮影用の大きいプールもありました。
そしてその頃の映画やテレビで『今をときめく人気者』だった人たちの顔があちこちに見えました。(でもぼくは社会表層の動き、流行にはあまり関心が無かったのでそんな光景を何の感動もなく眺めていた)

  ( 2016・3/19 )
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2016
03.17

撮影所で働いていた頃、その〔2〕 (blog,349p)

前回も書きましたがぼくは撮影所へ働きに行っていた期間、自分でカメラを持って仕事場の内外を撮って歩くことはしませんでした。
フィルム代も写真現像代もアルバイト暮らしの収入に比べて決して安いものではありませんでした。
それでこの撮影所時代の文章と一緒に掲載する写真は全部、当時親しかった二人の友人が撮ったものを使わせてもらっています。
        円谷時代2の1
上の写真左側に見える四角い建物はぼくら若者が集まって働いていたスタジオがあった撮影所の出入り口の『通用門(守衛所)』です。(公衆電話はそこにしかなかったし軍隊や警察以外の携帯電話なんかSF映画でしか見たことが無かった時代、1972年頃)
             ↑            ↑
一枚目の写真はぼくたちが働いていた建物の二階の窓からの眺めです。
真っ直ぐ道の奥に、屋根に何かを積んだバスと乗用車が何台か見えます。あれがその頃の本編映画撮影(役者が演技して劇を撮影する)の『ロケ隊、ロケバス』です。撮影機材とスタッフと主役以外の役者さんたちを目的地まで送迎していました。

        円谷時代2の2
             ↑            ↑
そして守衛室の前の人が立っている辺りから逆にぼくたちの仕事場の建物を撮ったのが上の写真です。(ぼくが居た美術部は写真に見える窓がある二階が作業室だった)
仕事場は二階建で上下合わせてもせいぜい50坪もあるか無いかのプレハブ倉庫のような建物でした。

上の写真手前に映っている自動車をご存知の方もあるかもしれません。(車の種類はマツダ・コスモだけれどそういうことではなくてこの車の役処のこと)
これは特撮テレビ映画の劇中で主役の人が所属している科学特別隊みたいな組織のシンボルの『超高性能車』ということになっていた車です。撮影に使われない時はこうして普通車ナンバーを付けて作業場の駐車スペースに放ったらかされてありました。

           円谷時代2の4
              ↑           ↑
では作業場の部屋の中はどうなっていたかというとこういう風でした。仕事中はいつでも誰かが何か作業をしていましたがそこへ入れ替わり立ち替わり他の仕事班の人や本社から何か伝達に来るマネージャーとか、意味不明にゴチャゴチャ雑然とした人の出入りがありました。
その中で必要な物を作ったり怪獣が壊したミニチュアセットなどを修理して作り変えたりするのがぼくらの仕事でした。
              ↓           ↓
        円谷時代2の5
       (たぶんバルサ材で直ぐに壊れるような家を作っているところ)

上の写真右側で何か作っている黒い服がぼく、手前で下を向いて作業している人はデザイナーのOさん(彼は超個性派俳優の故・岸田森の友人で実相寺昭雄監督映画でもいつも美術を担当していた)

Oさんの向こうでこちらを向いて仕事をしている人は穏やかな性格でみんなから好かれていたSさん。
彼はいつでも独り我が道をゆっくりと歩く人でした。大きい体格の人でしたが腎臓病を抱えていて大学も中退してこの仕事場へ通ってきていたのだそうです。
ある時フッと仕事場から消えて数週間居なくなりその内にまた出勤して来ました。そして土産話を聞いて知ったのは彼の与論島好きでした。
ぼくより以前から職場に居た人たちは知っていたそうですが彼はバイト料が少し貯まるとそのお金が無くなるまで与論島で暮らして来るのだそうで、ぼくが働いていた1年少々の間にもう一度同じような旅行をしたようでした。
ずっと後になって親しい友達から聞いた話では彼はあれからそう長く経たないうちに若くして持病の悪化によって亡くなられたということでした。
          円谷時代2の6
       (これから撮影に使う宇宙艇を磨き直しているところ、ぼく)

ぼくは元々子供の頃から自分で勝手に工夫して手近な材料で昔の家や船などを工作して作るのが好きでした。しかし漫画家になりたい希望と美術大学へ行きたい希望を強く抱いて東京へ出て行った時にはまさか数年後に自分が特撮テレビ映画の制作アルバイトスタッフになるなんて思いもよりませんでした。
        円谷時代2の7
今日お終いの写真は撮影所の通用門の位置から細い通りを挟んだ向かい側にある『ふじ食堂』を見たところです。
ぼくらはだいたい昼ご飯をこの食堂で食べていました。(ぼくは当時既に共同生活者と呼ぶ人がいたのでお弁当を作ってもらって持って行くことも多かった)それと本社が契約している弁当屋さんが朝注文しておくと昼に届けてくれるというのもありました。(代金は自前で払う)

撮影の仕事は朝から夜遅くまで掛ることが多くて朝9時から始まって夜7時前で終る日はそれっきり、夜7時過ぎまで仕事が伸びる日は残業手当はないのですがご飯とおかずの二段パック弁当が支給されてスキッ腹には助かりました。

  ( 2016・3/17 )
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2016
03.15

撮影所で働いていた頃、その〔1〕 (blog,348p)

『テレビや映画のセットの建物』
前回(blog,347p)の記事で村の家の母屋大改築工事に関連させて、ぼくが若い頃に働いていたテレビ映画製作会社(Tプロダクション)のぼくらの撮影現場のすぐ隣に立っていた時代劇撮影用の建物セットのことをちょっと書きました。
ついでなのでここでもうちょっとだけ脇道へ逸れて今まで身の回りの人々に話したことしかなかった(ぼくが)特撮テレビ映画製作現場で働いていた時のことを書いてみようと思います。

では早速、えーと、このページの白黒写真は今から40年以上前、東宝系のテレビ映画撮影所で働いていた時代のものです。
ここに写っている背景の建物がみんな時代劇撮影用のセットなのです。
それでこの角度でカメラを構えて撮影すれば一応ちゃんと古い家が建ち並んでいるように見えますがこれは手品のようなものです。
       円谷時代1の1
     (ぼくと同じアルバイトスタッフの女子大生が手前に2人写っている)

同じエリアには町の通路(街道)が交差する部分も作られてあって撮影カメラの位置と角度で江戸の町の広い辻や街道を進んだ先の別の宿場町の家並みに見えるようにもなっていました。
でも実際には張りぼての家々が全部で10数軒分かそこら建てられていただけでした。

そして時代劇の撮影が無い時には出入り勝手でぼくたちはよくそのオープンセットで昼休みや体力仕事の後の小休止をしたものでした。
       円谷時代1の2
    (上の写真に写っている人たちもみんなぼくが居た特撮チームのスタッフ)

さて今日書き込みたかったのは次の写真とそれを部分拡大した4枚目の写真に見えるものについてです。
この角度からは家の屋根が写る撮影はしません。それは当然で手前右側で休憩している青年の頭の向こう後方に写っている建物を視て下さい。(この辺り ↓ ↓ )
         円谷時代1の3
その部分だけを少しアップにして見易くしたのがこの下の写真です。建物の横壁も梁や柱も何にもありません。普通映画やテレビのセットはこれでOKなのです。(黒沢明監督の映画だけはこれじゃダメだったらしい)
まあそんな経験があったので、それで今度、村の家の母屋の改築に際して誰か映画や写真を撮りたい人がいたら役立つかと思ったのですが、もう工事は進んでしまいましたから今からではどうにもなりません。
           円谷時代1の5
ところで、自分では全く写さなかった撮影所時代の写真ですがプロダクションスタッフはよく撮影風景やその他の写真を撮っていました。

今日ブログに載せてある写真は撮影所時代の仲間だったKさんにお願いして10年以上後になって彼のストック写真の中からぼくのマンガ制作資料になりそうなものを選んで送ってもらった内の一部です。そして本日最後(下の写真)は蛇足の一枚です。この橋の上で休憩中の数人の一番右端、橋の手すりに肘をついて写っているのが当時のぼくでした。

写真と言えば、ぼくには幼年時は勿論、少年時代、高校卒業後の東京時代の古い写真もあまり多くは持てなかったのにじつは10年ほど前に他の物と一緒に大事なネガを入れてあったダンボール箱を盗難に遇ってしまってすっかり落ち込んだ時期がしばらく続きました。(他には貴重な古いマンガ本や日本最初のマンガ批評雑誌の創刊号から全冊揃いを入れておいたダンボール箱なども同時に盗まれてしまった)
         円谷時代1の4
盗まれた荷物に入っていた写真に関してはおそらく24枚から37枚撮りまでの30本前後の白黒写真フィルムと僅かなカラー写真フィルムだったと思うのですが本当に残念で今でも心に怒りが呼び起こされてきます。

それらのフィルムにはぼくの中学時代の終わりか高校時代の初めから東京時代7年間の全生活と、今の町で暮らすようになった1970年代半ばから80年代の前半までの記録と思い出が詰まっていました。(とくに高校時代の数少ないネガフィルムには故郷の今はもうない風景とか地元のギャラリーの好意で無料で会場を貸してもらえて生まれて初めてマンガの個展を開催できた時の作品と会場の写真もあった)ぼくの年齢でいうと15歳位から30歳代になるまでの写真フィルムが失われてしまったことになります。

過ぎてしまったことは嘆いても仕方が無いわけですが他人の大事なものを勝手に持ち出して盗み去る人間の所業はやはり許せません。それが誰だったのか、後で薄々判ったのでしたがもうその時には連絡も取れない相手方になってしまっていました。

文字通りほとんど忘れかけた自分の幼年期少年期若者時代の思い出ですが、もはや写真を眺めて思い返すことも出来ません。
今度村の家で暮らすようになったらせめて自分の描くマンガと絵画と作文で「ぼくのあの頃、ぼくたちのあの頃」の空気や夢を作品化したいと思っています。

  ( 2016・3/13記、3/15,up )
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2016
03.13

母屋の改築工事、その〔8〕 (blog,347p)

Category: 村の家にて
前回までの書き込みの通り、母屋の壁が剥がし崩され柱や梁も切られたり外されたりして家の中が外と同じ地面の上の(大きな)掘立建築物の姿に変わって行きました。
柱の数は当初は相当な本数でした。しかし巨大な梁が天井の上に何本も通っているのとは対照的で、あまり太い柱はありませんでした。
大黒柱でもたぶん20cmかそこらの太さに見えましたからたくさん立っていた普通の柱はせいぜい10~12cm前後の太さしかなかったと思います。
これもおそらく柱と壁全体で重い梁と大屋根の荷重を支える仕組みだからなのかと思いながら観ていました。
         2016_02 06_母屋改築・8の1
   その母屋全体の姿は外から眺めるとこうなっていました。(下の2枚の写真参照)
             ↓            ↓
       2016_02 06_母屋改築・8の2
ぼくは東京暮らしをしていた時代、20代の初めの2年間足らずの短い期間でしたが東宝系の映画撮影所の臨時美術スタッフとして働いていたことがありました。

ぼくが働いていた現場はいわゆる『特撮スタジオ』でしたが、広い撮影所の中には当時テレビの人気番組だった時代劇用のオープンセットが作られていて、昼休みなどにはその時代劇セットの組まれたスペースで役者の卵のような人や古い映画時代からの制作現場の専門スタッフとも一緒に休憩したものでした。(時々主役スターがのんびり一人でたばこを吸っていたりして、何ということもない会話を交わしたりもしていた)
       2016_02 06_母屋改築・8の3
その時代劇セットの昔の家々の建物は役者が演技してカメラが撮影する表から見ると家が建っているように見えるのですが、裏から見ると建物が半分しかなくて支えの柱や足場資材(細い丸太材)がむき出しの中途半端な建造物群でした。

そう思いながら観ていたら今回の家の大改築にあたっては誰か映画作りをしている人で古い家のセット費用に苦労している人たちに連絡がとれたら使わせてあげられたなあと漠然と考えていました。
去年、そんな話をしようかと思って信州時代に仲良くしていた古い知人で最近(ここ10年位?)名が知られるようになったある劇場用映画監督に連絡を取って見ようとしたのですが、間になんだかサポーター組織みたいなのが在って一応メールは送って、その組織から監督に伝えますという返信はありましたが、それきり音沙汰無しでした。

まあ有名になるといろいろ取捨選択するようにならざるを得ないのかもしれませんね。(というわけでこの家で『ミニ・羅生門』のような面白い映画が生まれることにはならなかった)

  ( 2016・3/13 )
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2016
03.11

母屋の改築工事、その〔7〕 (blog,346p)

Category: 村の家にて
【今日はブログ記事をを書き始める前にお断りがあります】(その1)
2011年3月11日、福島県 双葉郡大熊町と双葉町にまたがる地域に設立建造されていた東京電力福島第一原子力発電所がウラン核燃料の冷却不能事態を起こして炉心溶融(メルトダウン、メルトスルー)に至り、建屋が4基も連続して水蒸気大爆発を起こした結果、日本列島は現在も史上最悪の放射能被曝汚染に晒され続けていて、人間にとっても自然環境それ自体にとっても将来に亘って決して安全が保障されることはない異常事態「危機」に瀕しています。

ぼくはあの日から5年経った今日2016年3月11日、自分自身のともすれば人間性を見失いがちな安直な生き方を反省して、大勢の浮薄で無責任な身過ぎ世過ぎの生き方に一緒に飲み込まれないために「福島第一原発事故」という呼び名の「核・放射能拡散犯罪事件」を引き起こした東京電力と日本政府に抗議します。原発事故は事故ではありません。犯罪です!

【今日はブログ記事をを書き始める前にお断りがあります】(その2)
しばらく前から我が家のパソコンの調子が極めて悪くなってきていて、初めに大きい変化が起きたのはツイッター画面がモバイル版に縮小され書き込みもまともに出来なくなったことでした。
どうやらこれはマイクロソフト社がこの夏でサービスを打ち切るVISTAのパソコンをぼくが使っているためらしいのですが、ツイッターの遣り取りの中でご親切に教えてくれる方があって〔ファイアーフォックス〕にログインすることで幾分正常に使えるようになって助かりました。

その後もグーグルの地図ページが作り変えられたら我が家のVISTAでは新しいシステムが使えないし、1月末からはキーボードの右側半分の位置に並んでいるキーの中の11,12個のキーが打てなくなっていて書き込みがまともにできないしただネットを閲覧するだけでも毎日ものすごく起動やドライブが遅くてとても〔光ネット〕とは思えない状態になっています。
そしてついに今朝方からはエクスプローラーではFC2ブログの画面が崩壊して編集機能が使えなくなってしまいました。(本当の原因は分らないけれど現在ログインも出来ないし自分のブログの表紙ページへも繋がらない。崩れた画面しか映らない)

それで仕方なしにブログもファイアーフォックスの方へ移動してみたところなんとか書き込み編集が出来そうなのでホッとして夕食後に新しいブログを書き出したのですが、慣れないせいもあってかなり使いにくい状態でここまで3時間位苦労してやっと写真だけ準備しました。

という訳で今後いつまでこのブログが書き込めるのか不安ですが、まあ書き込める間は書き続けようと思います。

さてそれではここから『母屋の改築工事、その〔7〕』写真の簡略なご説明です。
2016_02 06_母屋改築・7の1 2016_02 06_母屋改築・7の2
1月下旬から母屋改築修理のための工事が始められたのですがそれはぼくが思っていたよりずっと大掛りな工事になって行きました。

壁を崩し天井と床を剥がして撤去して柱と梁の構造で残すべきところはできるだけ残し、取り換えなければ危険な痛んだ部分は全て遣り替えてそのために間取りが多少ぼくたちの暮らしに窮屈な所が出てもやむを得ないと覚悟して計画を進めてもらいました。
2016_02 06_母屋改築・7の3 2016_02 06_母屋改築・7の4
しかし実際に工事が始まってすぐに分ったのですがぼくが残してほしいと思った構造材のうち、柱も梁も大半が虫に食われたり湿気?やカビ?などの被害を受けてすっかり耐久性の無いフェルト状態や空洞状態になってしまっていてプロの建築チームの技能を以てしてもどうにも残しようがない部材だらけだと納得せざるを得ませんでした。
たとえば1本の柱や梁で被害を免れたきれいな部分だけは残して悪い部分だけを新たに同じスケールで作り直し差し替え接ぎ木して使おうとすれば逆にその手間と材の工夫が難しくて工事に時間が掛かり出来上がりの頑丈さの点でも決して良い結果にはならないと教えられて、ぼくの希望を無理に通すことは断念しました。
       2016_02 08_母屋改築・7の5
それで家の内外のあちこちにたくさんの仮の柱や倒壊防止用の支え木を当てて全体のバランスが保たれるように考慮しながら殆どの柱と幾つもの太い梁が切り取られ、外されて行きました。
この大掛かりな作業をたった一人で実行して行く棟梁(Tさん)の技術と体力はいつも書きますが本当にスーパーマンのようです。
        2016_02 08_母屋改築・7の6
柱は地面の上に置かれたセメント板の束石(元は多分本当の石だった)の上に立てられていて全く固定・不動接着(ネジなどの繋ぎ)がされていないいわば『掘立柱式の基礎構造』でしたので、まあ前世紀の遺物であり古代からの建造物に類似した建物でもあるわけです。(冗談が許されるならば一種の『ヘリテージ!』)

ですがやっぱりぼくは現代人で、いくら古いものを大事に使って暮らしたいといっても再びこの『掘立柱の基礎』の上に部屋を作ってもらって住むという訳には行きません。
2016_02 06_母屋改築・7の7 2016_02 08_母屋改築・7の8
そこで後顧の憂い無く安心して暮らしてゆくために基礎はしっかり作っていただくように会社にお願いしました。
家全体の敷地面積は少し小さくすることにしています。(とくに北側の建屋部分をこれまで建っていた家より半間幅縮小する)
それによって家全体の耐久性は増すだろうと思っています。もちろん床下にも一定の厚さのコンクリートが敷かれる予定でした。
       2016_02 06_母屋改築・7の9
この上の二段の写真3枚に写っている幅のある溝が改築後の家の外周基礎になる寸法です。
この溝とその内側床下全体にコンクリートのベタ基礎が打たれることによってきっと地形上最も心配な家の北側の裏山からの(梅雨時などの)雨水、湿気の侵入は従前とは比べ物にならないほど防げるだろうと思っています。

なんにしても古い家を修理改造して現代のぼくたちが住む家に変えて行く工事が思いの外に大変なことだと日々に認識を改めています。

  ( 2016・3/11 )
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2016
03.09

母屋の改築工事、その〔6〕 (blog,345p)

Category: 村の家にて
今年になって1月の中旬から母屋の改築が始められました。
ここ一ヶ月半程の間に建物の内部構造にはものすごい変化が起こっていたのでここで数回に亘ってその改築工事現場ルポを書いておこうと思います。
       2016_02 06_母屋改築・6の1
古いこの家の壁や天井や床を取り去って行くに従って隠れていた梁や柱や土台の木材が虫食い被害や湿気と腐れですっかり原形を留めないところまで劣化変質してしまっていたことを知ってぼくはビックリして同時にこの家で過ごした日々が恐怖の日々だったと思いました。
もしも1995年1月17日の阪神淡路大地震や2011年3月11日の東日本大地震・大津波(原子力発電所建屋連続爆発)のような大災害がこの地域に発生していたら古い重い屋根のこの家は一気に崩落倒壊していたかもしれません。
        2016_02 06_母屋改築・6の2の1
この上の写真真ん中少し右寄りに見える比較的しっかりした柱がこの家の大黒柱で材はケヤキだと思います。
つい先々月1月の下旬までぼくはこの大黒柱の建っている横手の八畳間で寝起きしていて、その時は床の上に出ていた部分は十分に頑丈そうだったので地震が来てもビクともしないだろうと思って見ていました。
           2016_02 06_母屋改築・6の2
その最も頑丈そうだった柱の床から下の部分は ↑ ↑ こうなっていました。
工事をしてくれている棟梁のTさんによれば「梁や柱の一つ一つではすっかり弱っていても壁はしっかりしている部分があったし全体が組み合わさって支え合っているのが家の構造ですから案外丈夫で直ぐにドサッと倒れてしまう恐れはなかったでしょう。まあ何とも言えませんが」と言うことでした。
2016_02 06_母屋改築・6の3 2016_02 08_母屋改築・6の4
そうは言ってもらっても ↑ ↑ 現場で見るとこういう状態の柱が半数 ↑ ↑ でしたからやっぱり大改築(大修理)なくしてはとてもこの家でぼくも家族も安心して暮らすことはできなかったに違いありません。

これらの材木は柱も梁も指でちょっと触っただけでまるで発泡スチロールかクッキーやメロンパンのように簡単にボロボロと剥がれ落ちてしまうのでした。
それで殆どの柱はすぐ横に斜めの耐震補強支えを入れたり代理の支え材(仮柱)を当てて次々に除去されて行きました。                ↓    ↓    ↓
2016_02 08_母屋改築・6の5 2016_02 08_母屋改築・6の4の2
すると(この家には現代の建築様式の基本であるコンクリート基礎が無いので)80年か100年前かの元々ここに家を建てるために整地された広い地面が見えて来ました。
     2016_02 08_母屋改築・6の6
       (このページの写真は全て2月6日~8日までに撮影したもの)

しかし大屋根には重い泥と瓦がたくさん載っています。この状態はまるで巨人が自分の足の代わりに細い松葉づえだけで大きい身体全体を支えているようなもので、もしも揺れたりよじれたりしたらひとたまりもなく崩れ落ちるか倒れるかしてしまうでしょう。

この上は一刻も早くしっかりした基礎が築かれてその上に改めて頑丈な柱が建てられることを切に願いながら2月第一回目の村の家滞在から町の家へ帰って来たのでした。

  ( 2016・3/09 )
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2016
03.08

ぼくと油絵のこと〔3〕 (blog,344p)

昨日も書きましたがぼくが描く絵は基本的に幼児期に環境から刷り込まれた思考方法と描写の方法から抜け出せないままです。
つまり絵日記や図画(美術)の時間に習った観たものを見えた通りに画き写す『写生を下敷きにした上でしか』もっと自由なものの見方、表現の仕方へ足を踏み出すことが出来ません。

それでもまあ(芸大に行けなかった分)頑迷なアカデミズムからは少しだけ距離を置いてきたのである程度の「素朴さ」はあるのですが残念ながら【天然】の素質には恵まれていません。
2016_02 22_油絵の話・3の1 2016_03 03_油絵の話・3の2
それで自分の中の社会規範に捕らわれている感覚を意識して壊さないと写真に近い画き方から抜け出すことが出来ません。
上の2枚の絵の内、左側の方は今から20年位前に町の家の裏の縁側から見える風景を写生した絵を少しだけキュービズム的で表現主義的なアレンジで画きかけて(途中のままで)筆が止まった絵です。

その右側の半抽象的なイメージ画の方はいつ描き始めたものだったかもう記憶がハッキリしません。たぶん30年前後昔に月夜の晩の野外の風景か何かの印象を当時の自分の心象風景として描き出したかったのだろうと思いますが、未完成のまま放置していたのでどのような絵になる予定だったのか今では自分で分かりません。
ただ何となくその時なにか物語を考えていたような気持ちだけは思い出すのですが、どんな物語だったかは全く思い出せません。
            2016_03 01_油絵の話・3の4
観たものを見えたままに画くという『不自由な共通言語』を吾身から振り払って【自分が描きたいように表わす自由な活動】につなげて行く才能も努力も足りなかったぼくは今でも何とか少しでも自由な表現を得たいと思ってこうした落書きの様な絵画き(遊び?)を繰り返しています。
            2016_03 01_油絵の話・3の3
今回の村の家滞在中にやった絵画き遊びの中で例えばこの椅子に生物の写生画は、学校の美術の授業ならば先に上の写真の様なモチーフが準備されてそれを見ながら画面に画き写すのが通常の描写法ですが、じつは逆になっています。

それはどういうことかと言うと「最初に⇒バラバラな物のイメージを集めて絵を描いて、後で⇒その絵と似たような構図で果物やビンなどを並べて写真を撮ってみた」のです。(そういう寺山修司的な創作方法もぼくは好きなので)つまりこの写真と絵の順序は本当は上下が逆になっているというわけです。これはまさに【マンガ的表現】に他なりません。
            2016_03 03_油絵の話・3の5
ぼくの今後の「マンガ的生活」のための『本の保管を主とした資料室』になる予定の細長いこの部屋がこれからしばらくの滞在部屋になるので油絵もここで書き始めました。
母屋の改築が終るまでにこの部屋で30枚か40枚の油絵を描いて、できればその内の半分だけでも完成すると嬉しいのですが、さてどうなることでしょう。

この部屋の特別に作り着けてもらった大きい本棚の前で雨の日にゆっくり熱いブランデー紅茶を飲みながら「この気分を絵にしたらどうなるか」と思って描き出したのが今日のブログ最後の絵です。(無論まだ画きかけ途中)
             2016_03 03_油絵の話・3の6
       (タイトルは『雨の日に独りでお茶を飲む』約22 x 27cm)

次回からは少し家の工事に関する記事を書いて畑のことも書いてそれからまた絵やマンガのことも書きたいと思います。

  ( 2016・3/08 )
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2016
03.07

ぼくと油絵のこと〔2〕 (blog,343p)

絵の話の続きを書きたいと思います。
ぼくにとっては多分、鉛筆やペンやクレヨンや絵筆などの種類と紙や木や布など画面材には違いがあっても『絵を描くのは全てマンガとしての表現』に違いないと前回書きました。

ではぼくにとって「マンガ」という表現は何をさすのかという【定義】については自分の中でも確固とした理論化ができているわけではないのですが簡略すれば『自分の生きる目的、目標としている世界、または世界観(実践的思想)の全的表現』とでも言い得るのだろう(かな?)と思っています。
2016_02 19_街角アブストラクト・2の1 2016_02 19_街角アブストラクト・2の2
絵や作文やレポートや記念写真などようなのことだけに限らず、目に観たものを見えた通りに画き写す(映す)あるいは伝え合うということを学校や地域社会や世間で教わってそれがいわば【社会的人間生活の共通言語】であるという共通概念・コンセンサスとして生まれてすぐの時点からぼくたちは刷り込まれて育ちます。
そのために、言葉で言われる『千差万別』『十人十色』とか『個性』『独自性』というものの内容を実践的に理解実行することは容易ではありません。

けれども実際には生命の中に全く同じ存在は二つとないわけで便宜上よく似た言葉を使い、よく似た物を食べよく似た歩き方をしていても本当は皆がそれぞれに別々のことを言い、別々の味を感じ、別々の道を歩き、別々の到達点を目指しているのかもしれません。
ぼくが幼年時に環境下で意識して自己表現として選んだ「マンガ」というものはそういうプリミティブな『十人十色』の生き方を認める(主張する)ぼくなりの世界再構築の【場】であるのかもしれません。
2016_02 19_街角アブストラクト・2の3 2016_02 19_街角アブストラクト・2の4
なんだか前置きだけで今日のブログのページが終ってしまいそうですが、そんな訳でぼくが観た道端の光景がこの上の写真4枚に写っているものだとして『それがぼくの眼を通して脳に運ばれ、手の先から表出する形や感覚が下の絵のようになってゆく』というのはこじつけみたいですがたぶん事実でもあるわけです。(もちろん上の写真だけがこの絵の資料ということではない。ぼくの身体、脳内には既に膨大な情報が染み込んでいる)
        2016_02 27_街角アブストラクト・2の5
固定観念では測りきれないし既成の概念では理解不可能だった物事の実態や世界の真実が『現実社会という共同幻想』から解き放たれたなにものかによって掴み採られたり表出されたりすると(それが科学の理論であれ文学世界や絵画や造形における現場に於いてであれ)初め、ぼくたち社会的人間はそれを異質性としか捉えることができずに極度の違和感や受容拒否、共存否定という反応を示し結果として古くから人間社会が作り出し維持してきた『差別観』に結びつくことも往々にして起こり続けています。

でもそうした個性の表出発散する現場のムーヴメントこそが前衛と呼ばれるに相応しいもので、なにも革命理論の学習を通じて社会変革のための能力を高め労働運動や思想集団(党)建設の最先端に属し挺身することが前衛たる者の証しだなどとエリート意識なのかルサンチマンなのか分からないような前衛論に与する必要はありません。

ぼくたちが真に前衛的な理論や実験結果や創造表現の現場を見聞する時、その多くの姿はアブストラクトでありプリミティブな物事や人の生き様に見えるのだろうと思います。
(残念ながらぼく自身はさほどにプリミティブな人間ではなくてアブストラクトなものを生み出す能力も持ち合わせていない)

さて、もう一回位、絵に関することを書いてその後また村の家の改築や畑のあれこれを記事にしたいと思っています。

  ( 2016・3/07 )
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2016
03.06

ぼくと油絵のこと〔1〕 (blog,342p)

今回の村の家滞在中(2/21~3/4)には久し振りに毎日のように続けて油絵を何枚か画き出しました。(画き出しただけで完成したものはない)

油絵は観るのも描くのも大好きでいつも画きたいとは思っているのですが、生活空間に物を溜めこんでしまう性格なので段々身の回りに油絵を描くための道具を広げるスペースが無くなっていて【先ず場所を空けて画材を広げて少しばかり絵を画いて食事や他の作業のために慌てて片付ける】という手間が面倒でついつい油絵の絵筆を持つ手が遠退いてしまっていました。
2016_02 19_街角アブストラクト・1の2 2016_02 19_街角アブストラクト・1の1
それが今回の村の暮らしを計画したことで再び絵を描くスペースが出現してくれて俄かに油絵を描く情熱が再燃しつつあります。

ここで昨日のブログに書いた『町の家にいる間に近所の公園の周辺の道端や木々や草や枯れ葉などの写真を撮っていた話』に繋がります。
その時に撮った写真というのはこの画面の上下に並べたようなもので本当にごくありふれた道端の光景ばかりです。
2016_02 19_街角アブストラクト・1の3 2016_02 19_街角アブストラクト・1の4
それらの線や形や色合いなどの在り様をキャンバスの上にあれこれと描いてみながら何か想像したり妄想したりしている内に少しづつこんな絵になるかな、という構成・コンポジションが生まれて来ます。
それをとりとめなく画いてみたものがこの下のような絵になりつつあります。(これが画き出してから2時間後位の段階で完成まではもう数時間かかる予定だけれど途中で構想が変化すればこの絵は消えて上に別の絵が生まれることになる)
           2016_02 22_街角アブストラクト・1の5
      (この絵↑の大きさは約38 x 46cm程でキャンバス規格のF8号)

次の道端の写真は下の2枚でこちらもどこにでもある誰でも見慣れた場所や光景です。
2016_02 19_街角アブストラクト・1の7 2016_02 19_街角アブストラクト・1の6
その見慣れたもの同士を組み合わせて何か出てこないかなと思いながら以前描きかけにしてあった小さい画面の絵を眺めていたら、フッと村の畑の収穫物の夏ミカンのことがモチーフになりそうだぞと思えて来ました。
       2016_02 08_街角アブストラクト・1の8
そこで早速20年以上前に画きかけのままにしてあった絵に手を加えてアレンジし始めて30分か1時間後に下のような絵になりつつあるという感じです。
            2016_02 26_街角アブストラクト・1の9
       (この絵↑の大きさは約22 x 27cm程でキャンバスのF3号)

高校を卒業して上京し就職して働いた給料で初めての自分の油絵の具やイーゼルやキャンバスを買ったのは18歳の終り頃だったと思います。
そして最初は静物や野外風景や人体を写実的に描く練習から始めてその後は時々思い出したように身の回りの諸々を写生してみたり物語を含む想像や妄想を画きだしては直ぐに中断することを繰り返してきました。

雑誌やテレビ番組に絵を画く仕事をしたこともあったし観光地用の絵葉書の絵(原画)を画いたこともありましたが、ぼく自身にとっては鉛筆やクレヨンで落書きしたり水彩絵の具やアクリル絵の具で色塗り遊びをしたりペンと筆と墨汁で正式な漫画(劇画)を画いたりする行為の全てが多分【マンガ表現】そのものなのだろうと思っています。

絵のことは次回以降ももう少し記してみようと思います。

  ( 2016・3/06 )
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2016
03.05

二週間前の梅の花 (blog,341p)

Category: 町の家にて
今回は2月21日から昨夜(深夜)に帰宅するまで約2週間、村の家へ行ってきました。
いろいろブログに記したいことがたくさんありましたが、まだ写真もメモも整理がつきませんので取敢えず2週間前の町の家にいた時のことからちょっと書き始めようと思います。
          2016_02 18_御所・1の1
ぼくの一生で間違いなく最も長く暮らしたことになるであろう今の町の家の近くに大きい公園の様なスペースがあります。
そこは本当は嘗て長年に亘ってこの国の中心権力者のものとされてきた日本最大の屋敷なのですが、現在では一部分は実際に子どもや市民のための公園になっています。
       2016_02 18_御所・1の2
そこでは一年中、四季折々に花が咲き草が萌え鳥が集まり市民や観光客の憩いの場になっています。(ぼくも時々そのエリアを自転車でゆっくり走り抜けて出掛けたりしている)

2週間前にそこを通り抜けたのは街中の大きい病院へ行った帰りでした。その翌日もう一度出掛けて行って数十枚の写真を撮ってきましたが、その大半は木々や花々などの公園の写真ではなくてただの道の端や落ち葉の佇まいを撮るのが目的でした。
     2016_02 18_御所・1の4
道や枯れ葉を写真に撮って何にするつもりかと思われるでしょうがその答えは次回のブログで書こうと思います。今日は少しだけ写真に収めてきた寒梅、老梅、春告げの梅の花などを載せてみましょう。(2月18日撮影)

この巨大な屋敷地は今では個人や一族の持ち物ではなくて役所が管理する一種の文化遺産という扱いになっています。
もう二度と国家や人間を誰か特権者の勝手な支配の下に置くようなことがあってはならないことですが、支配者の方ではいつでもぼくたちから自由な人間の権利を奪って再び国家も人間も自分たちの支配の下に置こうとスキを狙っています。

ぼくたちは元々自由な思想や信条を持ち自分の生涯を生きて楽しむ権利を持っています。その自由に生きる権利を侵害するものには怒りと抗議の声を挙げ行動を起こすことが必要です。
ぼくはささやかでも非力でもそういう人間として大切なものを手放さない、奪われないように心して生き抜きたいと日頃から思っています。

  ( 2016・3/05 )
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